Episode8 サドン・デス
2014年5月18日 ジムの歴史エンゼルメガバトルチャンピオンズリーグ1999-2000から約2ヶ月、私達はまだヘヴンズ#ジムの壁を越えられずにいた。
毎日、エンゼル中間店に入り浸っていたセイゴは、ここ数日、いつもと違う雰囲気を感じていた。
第15回エンゼルメガバトルは2000年5月21日に予定されていて、第16回エンゼルメガバトルの日程を決める時期だった。
ある日の20痔、閉店時間になりお客さんがいなくなった。
嫌な予感はした。
次の瞬間、気の利く女性店員の3人のうち社員の1人が、「次回の大会はできない」と言った。
その一言で、セイゴは意味を理解した。
続けて、「まだ誰にも言っていないけど、5月末で閉店する」と告げられた。
気の利く女性店員の3人のうちアルバイトの2人は少しだけ泣いていた。
2000年5月21日の第15回エンゼルメガバトルは、皮肉にも、過去最多となる32名で行われた。
この大会で、ヘヴンズ#ジムの連覇は3で止まった。
しかし、止めたのは私達ではなく、フルショウくんがシニアで優勝した九州大会のジュニアの優勝者だった。
彼は、エンゼルメガバトルでは苦戦が続いていたが、私達より先にヘヴンズ#ジムの壁を越えた。
そして、遂に私達は、エンゼルメガバトルでヘヴンズ#ジムの壁を越えることはなかった。
セイゴは次回の大会がないことを参加者には告げず、いつも通り大会レポートを店長に提出し、店長に表彰式の開催をお願いした。
そして店長から、「次回の大会はありません。エンゼル中間店は来週で閉店します」と電撃発表された。
ここで、エンゼルメガバトルを振り返ってみる。
大会の特徴を思い返すと、スイス式トーナメントではなく、1グループ3~6名、各グループ1~2名通過の予選後に本選を行っていた。
サッカーのワールドカップのようにランク分けもせず、完全な抽選。
故に、準決勝レベルの死のグループもあれば、本命のいないグループもあった。
むしろ、群雄割拠になったことがない。
3名グループで2名通過ということもあった。
しかし、参加者全員が抽選を楽しんでいた。
2名の順位が並び、プレーオフを行ったこともある。
3名の成績が並び、プレーオフが3試合になったこともある。
4名の成績が並び、プレーオフをシングル・エリミネーションで行なったこともある。
プレーオフの成績が並び、再プレーオフをしたこともある。
しかし、どれも他のグループの参加者が食い入るように見て、プレイに歓声が上がり、いつもの予選とは違う面白みがあった。
時間切れではなくルール上の引き分けになった試合、ラストターンのプレイングミスで決勝進出者が入れ替わった試合、サイドカード0-5から6-5に大逆転した試合、山札の最後の1枚のドローで逆転した決勝、当時の入賞プライズであった金属製コインを惜しげもなく使用した試合、たくさんのドラマがあった。
数あるドラマの中でも最も印象に残っているのは、九州代表初の四天王となったフルショウくんのコイントス。
コイントスはオモテかウラを決めるはずなのに、テーブルに立ってしまうという珍プレー。
もちろん投げ直しにはなったが、ジャッジも参加者と一緒になって笑い、すぐには投げ直させなかった。
ジャッジ アンドウの一言目は、「初めて見たしオモテで良いでしょう」だった。
今で言うと、「持ってる」って言うやつですかね。
3大会連続優勝すると殿堂入りというルールもあった。
しかし、殿堂入りどころか連覇を達成する人も現れなかった。
前回優勝者は予選免除だったにも関わらず。
このルールも物議を醸した。
何せ、シードされている前回優勝者が3大会連続で本選1回戦で敗れた。
既に3試合を終えて乗っている予選通過者に1試合目で勝つのは無理なのではないかという声が上がり、シード権は廃止された。
毎日、エンゼル中間店に入り浸っていたセイゴは、ここ数日、いつもと違う雰囲気を感じていた。
第15回エンゼルメガバトルは2000年5月21日に予定されていて、第16回エンゼルメガバトルの日程を決める時期だった。
ある日の20痔、閉店時間になりお客さんがいなくなった。
嫌な予感はした。
次の瞬間、気の利く女性店員の3人のうち社員の1人が、「次回の大会はできない」と言った。
その一言で、セイゴは意味を理解した。
続けて、「まだ誰にも言っていないけど、5月末で閉店する」と告げられた。
気の利く女性店員の3人のうちアルバイトの2人は少しだけ泣いていた。
2000年5月21日の第15回エンゼルメガバトルは、皮肉にも、過去最多となる32名で行われた。
この大会で、ヘヴンズ#ジムの連覇は3で止まった。
しかし、止めたのは私達ではなく、フルショウくんがシニアで優勝した九州大会のジュニアの優勝者だった。
彼は、エンゼルメガバトルでは苦戦が続いていたが、私達より先にヘヴンズ#ジムの壁を越えた。
そして、遂に私達は、エンゼルメガバトルでヘヴンズ#ジムの壁を越えることはなかった。
セイゴは次回の大会がないことを参加者には告げず、いつも通り大会レポートを店長に提出し、店長に表彰式の開催をお願いした。
そして店長から、「次回の大会はありません。エンゼル中間店は来週で閉店します」と電撃発表された。
ここで、エンゼルメガバトルを振り返ってみる。
大会の特徴を思い返すと、スイス式トーナメントではなく、1グループ3~6名、各グループ1~2名通過の予選後に本選を行っていた。
サッカーのワールドカップのようにランク分けもせず、完全な抽選。
故に、準決勝レベルの死のグループもあれば、本命のいないグループもあった。
むしろ、群雄割拠になったことがない。
3名グループで2名通過ということもあった。
しかし、参加者全員が抽選を楽しんでいた。
2名の順位が並び、プレーオフを行ったこともある。
3名の成績が並び、プレーオフが3試合になったこともある。
4名の成績が並び、プレーオフをシングル・エリミネーションで行なったこともある。
プレーオフの成績が並び、再プレーオフをしたこともある。
しかし、どれも他のグループの参加者が食い入るように見て、プレイに歓声が上がり、いつもの予選とは違う面白みがあった。
時間切れではなくルール上の引き分けになった試合、ラストターンのプレイングミスで決勝進出者が入れ替わった試合、サイドカード0-5から6-5に大逆転した試合、山札の最後の1枚のドローで逆転した決勝、当時の入賞プライズであった金属製コインを惜しげもなく使用した試合、たくさんのドラマがあった。
数あるドラマの中でも最も印象に残っているのは、九州代表初の四天王となったフルショウくんのコイントス。
コイントスはオモテかウラを決めるはずなのに、テーブルに立ってしまうという珍プレー。
もちろん投げ直しにはなったが、ジャッジも参加者と一緒になって笑い、すぐには投げ直させなかった。
ジャッジ アンドウの一言目は、「初めて見たしオモテで良いでしょう」だった。
今で言うと、「持ってる」って言うやつですかね。
3大会連続優勝すると殿堂入りというルールもあった。
しかし、殿堂入りどころか連覇を達成する人も現れなかった。
前回優勝者は予選免除だったにも関わらず。
このルールも物議を醸した。
何せ、シードされている前回優勝者が3大会連続で本選1回戦で敗れた。
既に3試合を終えて乗っている予選通過者に1試合目で勝つのは無理なのではないかという声が上がり、シード権は廃止された。
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