Episode11 2年連続の全国大会
2014年8月28日 ジムの歴史ワールドチャレンジ(夏)の優勝により、チャレンジロード’99 SUMMERに続いて2年連続の全国大会出場となった。
この大会でトシユキは準優勝し、九州に初の全国入賞をもたらした。
快進撃は続き、翌日に開催された過去の全国大会入賞者を集めて開催されたチャンピオンズリーグでも3位となった。
トシユキはこの大会で引退したが、チャンピオンズリーグが廃止されるまで九州唯一のチャンピオンズリーガーとして残留し続け、その実力は“ホンモノ”だった。(※チャンピオンズリーグは前回のチャンピオンズリーグの上位8名+全国上位4名×2部門の16名が出場し、上位8名が残留)
そんな中、ワールドチャレンジ(夏)から4ヶ月、エンゼル中間店の閉店による影響が大きく現れる。
メンバーの考え方の違いが顕著になり、あるてぃめっとジムは2000年12月2日に年内での活動休止を決める。
九州大会と中国・四国大会の優勝で目標を達成したことも多分に影響しているが、絶対的なリーダーである店長を失ったことが一番大きかった。
この大会でトシユキは準優勝し、九州に初の全国入賞をもたらした。
快進撃は続き、翌日に開催された過去の全国大会入賞者を集めて開催されたチャンピオンズリーグでも3位となった。
トシユキはこの大会で引退したが、チャンピオンズリーグが廃止されるまで九州唯一のチャンピオンズリーガーとして残留し続け、その実力は“ホンモノ”だった。(※チャンピオンズリーグは前回のチャンピオンズリーグの上位8名+全国上位4名×2部門の16名が出場し、上位8名が残留)
そんな中、ワールドチャレンジ(夏)から4ヶ月、エンゼル中間店の閉店による影響が大きく現れる。
メンバーの考え方の違いが顕著になり、あるてぃめっとジムは2000年12月2日に年内での活動休止を決める。
九州大会と中国・四国大会の優勝で目標を達成したことも多分に影響しているが、絶対的なリーダーである店長を失ったことが一番大きかった。
Episode10 初優勝からの3日
2014年5月24日 ジムの歴史 コメント (2)2000年7月31日、ワールドチャレンジ(夏) 九州大会の翌日、ヨウヘイは以前にも増してポケカに熱が入っていた。
トシユキがジムに初優勝をもたらしたことに大いなる刺激を受けていたが、トシユキの全国大会をサポートすべきと考えていたセイゴとはベクトルが合っていなかった。
2000年8月1日、ワールドチャレンジ(夏) 九州大会の翌々日、ヨウヘイはとんでもないことを言い出した。
ヨウヘイ「中国・四国大会に行こう!」
セイゴは、ドン引きだった。
中国・四国大会の会場は広島。
その日程は2000年8月2日、つまり翌日。
福岡県から一人で出たことがなく、旅費を持たない高校生と中学生が一念発起で広島へ、あり得ない話だった。
書店へ行き時刻表を調べると、青春18きっぷを使って普通列車で行くのが安くて現実的と言うこと、広島までの終電は17時40分頃と言うことが分かった。(注:当時はパソコンや携帯電話がまったく普及していない時代です)
その時の時刻は16時頃で、迷っている時間はなかった。
電車の乗り換えの駅と時刻、会場への行き方をメモし、ヨウヘイ・ヨシツグ・カオルの3人が行くことに決まった。
3人になったのは、もちろん青春18きっぷが5枚だから。
一旦家に帰り支度をして、駅で待ち合わせた。
駅に着いたのは出発数分前、まさに間一髪だった。
ドタバタで出発したこともあり、3人はハイテンションだった。
普通列車で6時間、何と言うこともなかった。
ポケカの話もポケカ以外の話も盛り上がり、山陰本線では車内に他のお客さんがいない上にほとんど停車しないので熱戦が繰り広げられていた。
4ヶ月前はトクヒロくんがカメックス+オーダイルで私達を圧倒していたが、この4ヶ月でセイゴはカメックス+オーダイルを完璧に仕上げ、テストプレイヤーを務めていたカオルはプレイングを100%マスターしていた。
ヨシツグは、セイゴやカオルの意見を多分に聞いていたが、3枚だけ異なるデッキを使っていた。
2人がカメックス+オーダイル一択と考えた中、ヨウヘイはバクフーン単を使い、2人を圧倒していた。
ヨシツグとカオルは最初はまぐれだと思っていたが、その圧倒的なスピードに付いて行けず、実に90%のゲームを失っていた。
中国・四国大会の中学生・高校生部門は640人の定員を僅かにオーバーし、当日抽選となった。
当日抽選で落ちるのは指で数えるほど、落ちるわけはなかった。
10人1グループで3戦の予選を行い、上位1名が本選へ進出、最大で5人が全勝となる恐ろしいほど厳しい形式だった。
ヨウヘイ、3勝0敗、引いたサイドカード18枚。
ヨシツグ、3勝0敗、引いたサイドカード18枚。
カオル、3勝0敗、引いたサイドカード18枚。
3人揃って本選へ進出。
本選開始時に3人が辞退し61人、2人が予選成績の偽装で失格になり59人。
ヨシツグは1回戦で敗退しベスト64。
ヨウヘイは4連勝後に、体調不良により準決勝を辞退しベスト8。(当時は辞退した場合、1戦前の人が繰り上がったため、1戦前の勝利が取り消された)
カオルは5連勝で決勝に進出。
決勝の相手のデッキはリザードンだったが、ダメージカウンターを1個も乗せられることなく6-0で勝利し、ジムに2度目の優勝をもたらした。
4日の間に2会場連続で優勝、私達は紛れもなく大きな流れを作っていた。
カオルはデッキ構築を一切せず、渡されたデッキを正確にプレイングして意見をフィードバックするテストプレイヤーというポジションだったため、全国大会に出場するのは不適切と考えており、全国大会出場を辞退した。
マスタージャッジを務めていたトリイさんは、カオルのプレイングを食い入るように見ており、その速さと正確さを高く評価していた。
スタッフの1人が「全国大会での優勝の可能性も高いのに勿体ない」と漏らすほどだった。
準優勝者が繰り上がりで全国大会に出場したが、準々決勝でヨウヘイにも0-6で敗れていたことが分かり、私達は7勝2敗のプレイヤーが全国大会出場という珍事の当事者となった。
ヨウヘイ「準々決勝の対戦相手が同じ炎のリザードンを使って決勝まで進めたのだから、オレも決勝まで進めたはず」
カオル「ヨウヘイが決勝まで進めば優勝はできなかった」
トシユキがジムに初優勝をもたらしたことに大いなる刺激を受けていたが、トシユキの全国大会をサポートすべきと考えていたセイゴとはベクトルが合っていなかった。
2000年8月1日、ワールドチャレンジ(夏) 九州大会の翌々日、ヨウヘイはとんでもないことを言い出した。
ヨウヘイ「中国・四国大会に行こう!」
セイゴは、ドン引きだった。
中国・四国大会の会場は広島。
その日程は2000年8月2日、つまり翌日。
福岡県から一人で出たことがなく、旅費を持たない高校生と中学生が一念発起で広島へ、あり得ない話だった。
書店へ行き時刻表を調べると、青春18きっぷを使って普通列車で行くのが安くて現実的と言うこと、広島までの終電は17時40分頃と言うことが分かった。(注:当時はパソコンや携帯電話がまったく普及していない時代です)
その時の時刻は16時頃で、迷っている時間はなかった。
電車の乗り換えの駅と時刻、会場への行き方をメモし、ヨウヘイ・ヨシツグ・カオルの3人が行くことに決まった。
3人になったのは、もちろん青春18きっぷが5枚だから。
一旦家に帰り支度をして、駅で待ち合わせた。
駅に着いたのは出発数分前、まさに間一髪だった。
ドタバタで出発したこともあり、3人はハイテンションだった。
普通列車で6時間、何と言うこともなかった。
ポケカの話もポケカ以外の話も盛り上がり、山陰本線では車内に他のお客さんがいない上にほとんど停車しないので熱戦が繰り広げられていた。
4ヶ月前はトクヒロくんがカメックス+オーダイルで私達を圧倒していたが、この4ヶ月でセイゴはカメックス+オーダイルを完璧に仕上げ、テストプレイヤーを務めていたカオルはプレイングを100%マスターしていた。
ヨシツグは、セイゴやカオルの意見を多分に聞いていたが、3枚だけ異なるデッキを使っていた。
2人がカメックス+オーダイル一択と考えた中、ヨウヘイはバクフーン単を使い、2人を圧倒していた。
ヨシツグとカオルは最初はまぐれだと思っていたが、その圧倒的なスピードに付いて行けず、実に90%のゲームを失っていた。
中国・四国大会の中学生・高校生部門は640人の定員を僅かにオーバーし、当日抽選となった。
当日抽選で落ちるのは指で数えるほど、落ちるわけはなかった。
10人1グループで3戦の予選を行い、上位1名が本選へ進出、最大で5人が全勝となる恐ろしいほど厳しい形式だった。
ヨウヘイ、3勝0敗、引いたサイドカード18枚。
ヨシツグ、3勝0敗、引いたサイドカード18枚。
カオル、3勝0敗、引いたサイドカード18枚。
3人揃って本選へ進出。
本選開始時に3人が辞退し61人、2人が予選成績の偽装で失格になり59人。
ヨシツグは1回戦で敗退しベスト64。
ヨウヘイは4連勝後に、体調不良により準決勝を辞退しベスト8。(当時は辞退した場合、1戦前の人が繰り上がったため、1戦前の勝利が取り消された)
カオルは5連勝で決勝に進出。
決勝の相手のデッキはリザードンだったが、ダメージカウンターを1個も乗せられることなく6-0で勝利し、ジムに2度目の優勝をもたらした。
4日の間に2会場連続で優勝、私達は紛れもなく大きな流れを作っていた。
カオルはデッキ構築を一切せず、渡されたデッキを正確にプレイングして意見をフィードバックするテストプレイヤーというポジションだったため、全国大会に出場するのは不適切と考えており、全国大会出場を辞退した。
マスタージャッジを務めていたトリイさんは、カオルのプレイングを食い入るように見ており、その速さと正確さを高く評価していた。
スタッフの1人が「全国大会での優勝の可能性も高いのに勿体ない」と漏らすほどだった。
準優勝者が繰り上がりで全国大会に出場したが、準々決勝でヨウヘイにも0-6で敗れていたことが分かり、私達は7勝2敗のプレイヤーが全国大会出場という珍事の当事者となった。
ヨウヘイ「準々決勝の対戦相手が同じ炎のリザードンを使って決勝まで進めたのだから、オレも決勝まで進めたはず」
カオル「ヨウヘイが決勝まで進めば優勝はできなかった」
Episode9 あれから1年、九州大会に再挑戦
2014年5月22日 ジムの歴史エンゼルメガバトル終了後、新しい大会を作ることを模索したが、開催する場所を確保できなかった。
私達は、毎週のようにヘヴンズ#ジムの練習会場である隣町のサンリブ三ヶ森に出掛けた。
ポケカ版出稽古である。
事前にスケジュールを確認していた訳ではないので、出掛けても会えずに帰ることもあった。
ヘヴンズ#ジムから私達の練習会場であるダイエー中間店に来ることもあった。
この頃のヘヴンズ#ジムはメンバーが上層と下層に二分されていて、私達は間を埋めた。
2つのジムは切磋琢磨し、次々に新しいデッキ・構築法・プレイングを見付けた。
練習は缶詰ではなく、買い物をしたり食事をしたり、今まで通り自由だった。
ヘヴンズ#ジムも私達と同じように、毎日集まれる人が集まり、自由に遊んでいたのである。
約2ヶ月後の2000年7月30日にワールドチャレンジ(夏) 九州大会が開かれた。
この大会は小学生部門640人、中学生・高校生部門640人という定員で行われ、九州大会の中学生・高校生部門は当日抽選が行われた。
高校生までしか出場できないため遠征者は多くないが、バトルカーニバル2013スプリングより多い参加者数である。
私達はトクヒロくんの優勝はほぼ確実と思っていた。
しかし、ヨウヘイ・ヨシユキ・シンイチ・トシユキ・ヨシツグ、すべてのジムメンバーが「トクヒロくんを決勝戦で倒す」と強く思っていた。
ヨシツグは、この時点では正式にジムに入団していた訳ではないが、私達と常に行動し、ジムメンバーに多くを助言し、ジムメンバーから多くの助言を受けていた、事実上のジムメンバーである。
セイゴは、年齢制限により出場できなかったため、サポートメンバーとして帯同していた。
予選は、株式会社クリーチャーズが用意した全員同じデッキによる10人3回戦1人通過のハーフリーグで行われ、2勝1敗のシンイチのみが予選敗退となった。
ヘヴンズ#ジムも多くのジムメンバーを本選に進出させた。
この時点で九州大会ベスト64、その約1/4を私達とヘヴンズ#ジムが占めていた。
セイゴは、東京から息子1人と娘2人を連れて来ているパパと話をしていた。
2人は初めて会ったが、お互いに自分達の努力を誇りに思っており、深い話をしていた。
パパ「周りの人はデッキに入れたカードを引けないと嘆く。しかし、私はデッキに入れたカードを引けるようにデッキを作っている」
ベスト8に残ったのはヨシユキとトシユキのみ、ヘヴンズ#ジムは1人も残れなかった。
後で考えるとヘヴンズ#ジムの大半のメンバーは今回が初めての公式大会であり、経験が足りなかったのかも知れない。
ヨシユキはラウンド8で敗れ、私達に残されたのはトシユキのみだった。
この時点のジムメンバーの実力は、セイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ・ヨシツグ・トシユキ・シンイチの順で、大穴中の大穴だった。
私達はトシユキの試合を観ていたが、どの試合も一方的に攻めている訳ではなく、気付いたら終盤に逆転する試合を繰り返していた。
毎試合違う場になり、パパからは「あのデッキは何?」と質問されていた。
トシユキは、掴みどころのない試合を繰り返し、ジムに初優勝をもたらした。
しかし、私達は、何故トシユキが優勝したのか分からなかった。
会場を出たところで優勝者となったトシユキは2人の挑戦を受けた。
まるで、ちょうど1年前のチャレンジロード’99 SUMMER 福岡大会のように。
今回は、トシユキが圧倒した。
ヨウヘイ「トシユキで優勝できるならオレも優勝できる」
トシユキ「マジ、運が良かったぁ。全国大会でも優勝してくる」
当時は分からなかったが、後で振り返ると、トシユキが優勝したのは運ではない。
トシユキは、確かに相手を圧倒することはなかったし、毎試合同じ場を作ることができなかった。
しかし、それこそが戦術だったのだと思う。
相手に応じて使うポケモンを変え、相手が進化デッキと判断すれば原始の力を持つプテラを、相手の弱点が雷ならR団のサンダーを、自分の準備ができれば友達の輪を持つプクリンを使っていた。
非常によく考えたカメレオン戦術だったのである。
私達は、毎週のようにヘヴンズ#ジムの練習会場である隣町のサンリブ三ヶ森に出掛けた。
ポケカ版出稽古である。
事前にスケジュールを確認していた訳ではないので、出掛けても会えずに帰ることもあった。
ヘヴンズ#ジムから私達の練習会場であるダイエー中間店に来ることもあった。
この頃のヘヴンズ#ジムはメンバーが上層と下層に二分されていて、私達は間を埋めた。
2つのジムは切磋琢磨し、次々に新しいデッキ・構築法・プレイングを見付けた。
練習は缶詰ではなく、買い物をしたり食事をしたり、今まで通り自由だった。
ヘヴンズ#ジムも私達と同じように、毎日集まれる人が集まり、自由に遊んでいたのである。
約2ヶ月後の2000年7月30日にワールドチャレンジ(夏) 九州大会が開かれた。
この大会は小学生部門640人、中学生・高校生部門640人という定員で行われ、九州大会の中学生・高校生部門は当日抽選が行われた。
高校生までしか出場できないため遠征者は多くないが、バトルカーニバル2013スプリングより多い参加者数である。
私達はトクヒロくんの優勝はほぼ確実と思っていた。
しかし、ヨウヘイ・ヨシユキ・シンイチ・トシユキ・ヨシツグ、すべてのジムメンバーが「トクヒロくんを決勝戦で倒す」と強く思っていた。
ヨシツグは、この時点では正式にジムに入団していた訳ではないが、私達と常に行動し、ジムメンバーに多くを助言し、ジムメンバーから多くの助言を受けていた、事実上のジムメンバーである。
セイゴは、年齢制限により出場できなかったため、サポートメンバーとして帯同していた。
予選は、株式会社クリーチャーズが用意した全員同じデッキによる10人3回戦1人通過のハーフリーグで行われ、2勝1敗のシンイチのみが予選敗退となった。
ヘヴンズ#ジムも多くのジムメンバーを本選に進出させた。
この時点で九州大会ベスト64、その約1/4を私達とヘヴンズ#ジムが占めていた。
セイゴは、東京から息子1人と娘2人を連れて来ているパパと話をしていた。
2人は初めて会ったが、お互いに自分達の努力を誇りに思っており、深い話をしていた。
パパ「周りの人はデッキに入れたカードを引けないと嘆く。しかし、私はデッキに入れたカードを引けるようにデッキを作っている」
ベスト8に残ったのはヨシユキとトシユキのみ、ヘヴンズ#ジムは1人も残れなかった。
後で考えるとヘヴンズ#ジムの大半のメンバーは今回が初めての公式大会であり、経験が足りなかったのかも知れない。
ヨシユキはラウンド8で敗れ、私達に残されたのはトシユキのみだった。
この時点のジムメンバーの実力は、セイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ・ヨシツグ・トシユキ・シンイチの順で、大穴中の大穴だった。
私達はトシユキの試合を観ていたが、どの試合も一方的に攻めている訳ではなく、気付いたら終盤に逆転する試合を繰り返していた。
毎試合違う場になり、パパからは「あのデッキは何?」と質問されていた。
トシユキは、掴みどころのない試合を繰り返し、ジムに初優勝をもたらした。
しかし、私達は、何故トシユキが優勝したのか分からなかった。
会場を出たところで優勝者となったトシユキは2人の挑戦を受けた。
まるで、ちょうど1年前のチャレンジロード’99 SUMMER 福岡大会のように。
今回は、トシユキが圧倒した。
ヨウヘイ「トシユキで優勝できるならオレも優勝できる」
トシユキ「マジ、運が良かったぁ。全国大会でも優勝してくる」
当時は分からなかったが、後で振り返ると、トシユキが優勝したのは運ではない。
トシユキは、確かに相手を圧倒することはなかったし、毎試合同じ場を作ることができなかった。
しかし、それこそが戦術だったのだと思う。
相手に応じて使うポケモンを変え、相手が進化デッキと判断すれば原始の力を持つプテラを、相手の弱点が雷ならR団のサンダーを、自分の準備ができれば友達の輪を持つプクリンを使っていた。
非常によく考えたカメレオン戦術だったのである。
Episode8 サドン・デス
2014年5月18日 ジムの歴史エンゼルメガバトルチャンピオンズリーグ1999-2000から約2ヶ月、私達はまだヘヴンズ#ジムの壁を越えられずにいた。
毎日、エンゼル中間店に入り浸っていたセイゴは、ここ数日、いつもと違う雰囲気を感じていた。
第15回エンゼルメガバトルは2000年5月21日に予定されていて、第16回エンゼルメガバトルの日程を決める時期だった。
ある日の20痔、閉店時間になりお客さんがいなくなった。
嫌な予感はした。
次の瞬間、気の利く女性店員の3人のうち社員の1人が、「次回の大会はできない」と言った。
その一言で、セイゴは意味を理解した。
続けて、「まだ誰にも言っていないけど、5月末で閉店する」と告げられた。
気の利く女性店員の3人のうちアルバイトの2人は少しだけ泣いていた。
2000年5月21日の第15回エンゼルメガバトルは、皮肉にも、過去最多となる32名で行われた。
この大会で、ヘヴンズ#ジムの連覇は3で止まった。
しかし、止めたのは私達ではなく、フルショウくんがシニアで優勝した九州大会のジュニアの優勝者だった。
彼は、エンゼルメガバトルでは苦戦が続いていたが、私達より先にヘヴンズ#ジムの壁を越えた。
そして、遂に私達は、エンゼルメガバトルでヘヴンズ#ジムの壁を越えることはなかった。
セイゴは次回の大会がないことを参加者には告げず、いつも通り大会レポートを店長に提出し、店長に表彰式の開催をお願いした。
そして店長から、「次回の大会はありません。エンゼル中間店は来週で閉店します」と電撃発表された。
ここで、エンゼルメガバトルを振り返ってみる。
大会の特徴を思い返すと、スイス式トーナメントではなく、1グループ3~6名、各グループ1~2名通過の予選後に本選を行っていた。
サッカーのワールドカップのようにランク分けもせず、完全な抽選。
故に、準決勝レベルの死のグループもあれば、本命のいないグループもあった。
むしろ、群雄割拠になったことがない。
3名グループで2名通過ということもあった。
しかし、参加者全員が抽選を楽しんでいた。
2名の順位が並び、プレーオフを行ったこともある。
3名の成績が並び、プレーオフが3試合になったこともある。
4名の成績が並び、プレーオフをシングル・エリミネーションで行なったこともある。
プレーオフの成績が並び、再プレーオフをしたこともある。
しかし、どれも他のグループの参加者が食い入るように見て、プレイに歓声が上がり、いつもの予選とは違う面白みがあった。
時間切れではなくルール上の引き分けになった試合、ラストターンのプレイングミスで決勝進出者が入れ替わった試合、サイドカード0-5から6-5に大逆転した試合、山札の最後の1枚のドローで逆転した決勝、当時の入賞プライズであった金属製コインを惜しげもなく使用した試合、たくさんのドラマがあった。
数あるドラマの中でも最も印象に残っているのは、九州代表初の四天王となったフルショウくんのコイントス。
コイントスはオモテかウラを決めるはずなのに、テーブルに立ってしまうという珍プレー。
もちろん投げ直しにはなったが、ジャッジも参加者と一緒になって笑い、すぐには投げ直させなかった。
ジャッジ アンドウの一言目は、「初めて見たしオモテで良いでしょう」だった。
今で言うと、「持ってる」って言うやつですかね。
3大会連続優勝すると殿堂入りというルールもあった。
しかし、殿堂入りどころか連覇を達成する人も現れなかった。
前回優勝者は予選免除だったにも関わらず。
このルールも物議を醸した。
何せ、シードされている前回優勝者が3大会連続で本選1回戦で敗れた。
既に3試合を終えて乗っている予選通過者に1試合目で勝つのは無理なのではないかという声が上がり、シード権は廃止された。
毎日、エンゼル中間店に入り浸っていたセイゴは、ここ数日、いつもと違う雰囲気を感じていた。
第15回エンゼルメガバトルは2000年5月21日に予定されていて、第16回エンゼルメガバトルの日程を決める時期だった。
ある日の20痔、閉店時間になりお客さんがいなくなった。
嫌な予感はした。
次の瞬間、気の利く女性店員の3人のうち社員の1人が、「次回の大会はできない」と言った。
その一言で、セイゴは意味を理解した。
続けて、「まだ誰にも言っていないけど、5月末で閉店する」と告げられた。
気の利く女性店員の3人のうちアルバイトの2人は少しだけ泣いていた。
2000年5月21日の第15回エンゼルメガバトルは、皮肉にも、過去最多となる32名で行われた。
この大会で、ヘヴンズ#ジムの連覇は3で止まった。
しかし、止めたのは私達ではなく、フルショウくんがシニアで優勝した九州大会のジュニアの優勝者だった。
彼は、エンゼルメガバトルでは苦戦が続いていたが、私達より先にヘヴンズ#ジムの壁を越えた。
そして、遂に私達は、エンゼルメガバトルでヘヴンズ#ジムの壁を越えることはなかった。
セイゴは次回の大会がないことを参加者には告げず、いつも通り大会レポートを店長に提出し、店長に表彰式の開催をお願いした。
そして店長から、「次回の大会はありません。エンゼル中間店は来週で閉店します」と電撃発表された。
ここで、エンゼルメガバトルを振り返ってみる。
大会の特徴を思い返すと、スイス式トーナメントではなく、1グループ3~6名、各グループ1~2名通過の予選後に本選を行っていた。
サッカーのワールドカップのようにランク分けもせず、完全な抽選。
故に、準決勝レベルの死のグループもあれば、本命のいないグループもあった。
むしろ、群雄割拠になったことがない。
3名グループで2名通過ということもあった。
しかし、参加者全員が抽選を楽しんでいた。
2名の順位が並び、プレーオフを行ったこともある。
3名の成績が並び、プレーオフが3試合になったこともある。
4名の成績が並び、プレーオフをシングル・エリミネーションで行なったこともある。
プレーオフの成績が並び、再プレーオフをしたこともある。
しかし、どれも他のグループの参加者が食い入るように見て、プレイに歓声が上がり、いつもの予選とは違う面白みがあった。
時間切れではなくルール上の引き分けになった試合、ラストターンのプレイングミスで決勝進出者が入れ替わった試合、サイドカード0-5から6-5に大逆転した試合、山札の最後の1枚のドローで逆転した決勝、当時の入賞プライズであった金属製コインを惜しげもなく使用した試合、たくさんのドラマがあった。
数あるドラマの中でも最も印象に残っているのは、九州代表初の四天王となったフルショウくんのコイントス。
コイントスはオモテかウラを決めるはずなのに、テーブルに立ってしまうという珍プレー。
もちろん投げ直しにはなったが、ジャッジも参加者と一緒になって笑い、すぐには投げ直させなかった。
ジャッジ アンドウの一言目は、「初めて見たしオモテで良いでしょう」だった。
今で言うと、「持ってる」って言うやつですかね。
3大会連続優勝すると殿堂入りというルールもあった。
しかし、殿堂入りどころか連覇を達成する人も現れなかった。
前回優勝者は予選免除だったにも関わらず。
このルールも物議を醸した。
何せ、シードされている前回優勝者が3大会連続で本選1回戦で敗れた。
既に3試合を終えて乗っている予選通過者に1試合目で勝つのは無理なのではないかという声が上がり、シード権は廃止された。
Episode7 初の年間王者決定戦
2014年5月17日 ジムの歴史2000年3月26日、ついに年間王者決定戦 エンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000が開幕した。
通常のエンゼルメガバトルとは異なり、運の要素を徹底的に排除し、8名総当たり7回戦で行われた。
2000年1月16日に行われた九州大会では、ジュニア優勝、シニア優勝、シニア3位がエンゼルメガバトルの常連プレイヤーだった。(当時、マスター部門はありません)
2000年2月26日に行われた全国大会では、この大会の優勝者8名を集めて行われ、九州大会シニア優勝のフルショウくん(ヘヴンズ#ジム所属)は九州代表初となる3位入賞を果たしていた。
当然、フルショウくんはエンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000の優勝候補になっていた。
シード選手2人を欠いたうちのジムは、残る決勝大会2枠のうち1枠はヘヴンズ#ジムに取られると思っており、ヨシユキが残る1枠を狙っていた。
予選大会の順位は、1位・2位がヘヴンズ#ジム、3位・4位・5位・6位がヘヴンズ#ジム以外、7位・8位がヘヴンズ#ジムとなり、決勝大会に進んだのはヘヴンズ#ジム2人だった。
その中、フルショウくんは最下位に沈み、全国大会3位のプレイヤーの上に7名のプレイヤーが名を連ねた。
フルショウくんは言う。
「全国大会ではどうしようもないほど強いプレイヤーがいたが、エンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000には楽に勝てる試合は1試合もない」と。
2000年4月2日の決勝大会は、久々に店舗前の通路で行われ、ポケカプレイヤー以外の熱視線を浴びる独特の雰囲気が漂っていた。
組み合わせは、シード選手vs予選大会通過者、つまり、うちのジムvsヘヴンズ#ジム2試合で行われ、ジムの真っ向勝負だった。
先に終えたのは、ヨウヘイvsトクヒロくん。
トクヒロくんの圧勝だった。
セイゴvsサカモトくんは、R団のサンダー+エレブーのミラーマッチで、長時間に及ぶ熱戦だった。
結果は、6-5でサカモトくんの勝利。
2試合とも、ヘヴンズ#ジムが制し、シード選手は2人揃って敗れた。
決勝戦は、トクヒロくんがサカモトくんを制した。
以前から分かっていたが、トクヒロくんのオーダイル+カメックスは異次元の強さだった。
そして間違いなく、九州最強プレイヤーは九州大会シニア3位のヨウヘイでも九州大会シニア優勝のフルショウくんでもなく、トクヒロくんだった。
トクヒロくん「今回は運良く優勝できた」。大いなる謙遜。
サカモトくん「決勝は勝ち目がなかった。準決勝はやり直したら負けると思う」
ヨウヘイ「トクヒロくんは強すぎ。何回やっても負ける」
セイゴ「3人は良い勝負になるが、トクヒロくんは別格。勝ち方が分からない」
新シーズンに向けて、良いイメージはまったく湧いていなかった。
通常のエンゼルメガバトルとは異なり、運の要素を徹底的に排除し、8名総当たり7回戦で行われた。
2000年1月16日に行われた九州大会では、ジュニア優勝、シニア優勝、シニア3位がエンゼルメガバトルの常連プレイヤーだった。(当時、マスター部門はありません)
2000年2月26日に行われた全国大会では、この大会の優勝者8名を集めて行われ、九州大会シニア優勝のフルショウくん(ヘヴンズ#ジム所属)は九州代表初となる3位入賞を果たしていた。
当然、フルショウくんはエンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000の優勝候補になっていた。
シード選手2人を欠いたうちのジムは、残る決勝大会2枠のうち1枠はヘヴンズ#ジムに取られると思っており、ヨシユキが残る1枠を狙っていた。
予選大会の順位は、1位・2位がヘヴンズ#ジム、3位・4位・5位・6位がヘヴンズ#ジム以外、7位・8位がヘヴンズ#ジムとなり、決勝大会に進んだのはヘヴンズ#ジム2人だった。
その中、フルショウくんは最下位に沈み、全国大会3位のプレイヤーの上に7名のプレイヤーが名を連ねた。
フルショウくんは言う。
「全国大会ではどうしようもないほど強いプレイヤーがいたが、エンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000には楽に勝てる試合は1試合もない」と。
2000年4月2日の決勝大会は、久々に店舗前の通路で行われ、ポケカプレイヤー以外の熱視線を浴びる独特の雰囲気が漂っていた。
組み合わせは、シード選手vs予選大会通過者、つまり、うちのジムvsヘヴンズ#ジム2試合で行われ、ジムの真っ向勝負だった。
先に終えたのは、ヨウヘイvsトクヒロくん。
トクヒロくんの圧勝だった。
セイゴvsサカモトくんは、R団のサンダー+エレブーのミラーマッチで、長時間に及ぶ熱戦だった。
結果は、6-5でサカモトくんの勝利。
2試合とも、ヘヴンズ#ジムが制し、シード選手は2人揃って敗れた。
決勝戦は、トクヒロくんがサカモトくんを制した。
以前から分かっていたが、トクヒロくんのオーダイル+カメックスは異次元の強さだった。
そして間違いなく、九州最強プレイヤーは九州大会シニア3位のヨウヘイでも九州大会シニア優勝のフルショウくんでもなく、トクヒロくんだった。
トクヒロくん「今回は運良く優勝できた」。大いなる謙遜。
サカモトくん「決勝は勝ち目がなかった。準決勝はやり直したら負けると思う」
ヨウヘイ「トクヒロくんは強すぎ。何回やっても負ける」
セイゴ「3人は良い勝負になるが、トクヒロくんは別格。勝ち方が分からない」
新シーズンに向けて、良いイメージはまったく湧いていなかった。
Episode6 新興勢力現る
2014年5月15日 ジムの歴史1999年12月19日の第11回エンゼルメガバトルまで、ジムメンバーがコンスタントに優勝・入賞していた。
ライバルは、団地下ジムと痔民党。
団地下ジムは、同じ中学校に通う同級生がいつも団地下で遊んでいることから付けたジム名。
痔民党は、ふざけているだけのように見えるが、当時政権を握っていた自民党のようにエンゼルメガバトルで政権を握りたいという思いとユーモアから付けたジム名
メンバーはどちらも4名。
しかし、2000年に入ると勢力図は一変する。
1999年終盤から参加していたヘヴンズ#ジムが一気に実力を付けてきた。
2000年1月23日の第12回エンゼルメガバトルを制すと、入れ替わり立ち替わり新メンバーが現れ、一気に20名を越える大所帯となった。
“ジム”を名乗ってはいるが、同じ中学校のポケカプレイヤーを全員取り込むという驚きの手法だった。
団地下ジムと痔民党は表彰台から追い出され、6名の私達も表彰台に1人乗せるのが精一杯だった。
ちょうどこの頃、ジムとして応募して認定されるとポケカ雑誌「トレーナーズ」に掲載されるという企画があったが、何度応募しても認定されず、ジムとして辛い時期を過ごした。
後に、そこまで認定しないならとこれを逆手に取り、堂々と「非公認ジム」を名乗ることになる。
ジムとして“絶対に負けられない戦い”と位置付けていた2000年2月27日のナッシーチームバトルは、3名1組のチーム戦、6色すべてのエネルギーカードを3名合計で5枚ずつデッキに入れること、パソコン通信・ダウジングマシーン・超エネルギーリムーブは3名合計で各2枚までという複雑なレギュレーションで行われた。
ヘヴンズ#ジムはチーム内のデッキ構築の連携に失敗し、私達は念願のNo.1ジムの称号を手に入れた。
それも、単に3つのデッキを作るのではなく、全員がタケシのキュウコンを使うというチームコンセプトを投入した。
その1ヶ月後に、年間王者決定戦 エンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000を開催することも決まった。
日程は、入賞者中心のプレーオフと優勝者中心の予選大会が2000年3月26日、予選通過者とシード権獲得者による決勝大会が2000年4月2日。
前半戦を引っ張ってきた私達・団地下ジム・痔民党、後半戦を席巻したヘヴンズ#ジム、すべてのジムが集まり、この場で決着を付けようと約束をして別れた。
ライバルは、団地下ジムと痔民党。
団地下ジムは、同じ中学校に通う同級生がいつも団地下で遊んでいることから付けたジム名。
痔民党は、ふざけているだけのように見えるが、当時政権を握っていた自民党のようにエンゼルメガバトルで政権を握りたいという思いとユーモアから付けたジム名
メンバーはどちらも4名。
しかし、2000年に入ると勢力図は一変する。
1999年終盤から参加していたヘヴンズ#ジムが一気に実力を付けてきた。
2000年1月23日の第12回エンゼルメガバトルを制すと、入れ替わり立ち替わり新メンバーが現れ、一気に20名を越える大所帯となった。
“ジム”を名乗ってはいるが、同じ中学校のポケカプレイヤーを全員取り込むという驚きの手法だった。
団地下ジムと痔民党は表彰台から追い出され、6名の私達も表彰台に1人乗せるのが精一杯だった。
ちょうどこの頃、ジムとして応募して認定されるとポケカ雑誌「トレーナーズ」に掲載されるという企画があったが、何度応募しても認定されず、ジムとして辛い時期を過ごした。
後に、そこまで認定しないならとこれを逆手に取り、堂々と「非公認ジム」を名乗ることになる。
ジムとして“絶対に負けられない戦い”と位置付けていた2000年2月27日のナッシーチームバトルは、3名1組のチーム戦、6色すべてのエネルギーカードを3名合計で5枚ずつデッキに入れること、パソコン通信・ダウジングマシーン・超エネルギーリムーブは3名合計で各2枚までという複雑なレギュレーションで行われた。
ヘヴンズ#ジムはチーム内のデッキ構築の連携に失敗し、私達は念願のNo.1ジムの称号を手に入れた。
それも、単に3つのデッキを作るのではなく、全員がタケシのキュウコンを使うというチームコンセプトを投入した。
その1ヶ月後に、年間王者決定戦 エンゼルメガバトル チャンピオンズリーグ1999-2000を開催することも決まった。
日程は、入賞者中心のプレーオフと優勝者中心の予選大会が2000年3月26日、予選通過者とシード権獲得者による決勝大会が2000年4月2日。
前半戦を引っ張ってきた私達・団地下ジム・痔民党、後半戦を席巻したヘヴンズ#ジム、すべてのジムが集まり、この場で決着を付けようと約束をして別れた。
Episode5 次回の全国大会へ向けて
2014年5月11日 ジムの歴史1999年8月22日の全国大会を経て、1999年8月28日の第7回エンゼルメガバトルから1年後の全国大会へ向けて動き出した。
九州大会と全国大会のデッキのアイディア・完成度の違いを肌で感じ、誰もが頂点は遠いと感じていた。
ちょうど、エンゼルメガバトルの参加者が20名近くになり、進行を担当していた店長は「もう、私のレベルでは君達にはついていけない」と言い、大会運営の改革が必要だった。
改革は、セイゴに委ねられ、セイゴはレギュレーションとジャッジ制度の構築に着手した。
エンゼルメガバトル参加者から基本ルールを熟知しているプレイヤーを10名ほど選出し、難解なルール10問によるジャッジ認定試験を実施し、全問正解のセイゴ、8問正解のヨシユキ、7問正解のアンドウの3名が選ばれた。
5名を選出する予定だったが、次点が4問正解と大きな差があったので3名にした。
店長の代わりとなる進行役も必要だったため、1999年9月26日の第8回エンゼルメガバトルでセイゴがプレイヤーから退くことも決まった。
3大会連続で優勝すると殿堂入りというルールだったが、セイゴはこれを断念した。
迎えた1999年9月26日の第8回エンゼルメガバトル、これまでの参加者の増え方から22名の参加を想定していたが、25名と想定を上回る参加者が集まった。
セイゴは引退大会にこれまでより高い集中力で挑み、見事に優勝を成し遂げた。
そしてこの日、最も大きな波となったのは大会後の出来事。
予選で敗退したトシユキとシンイチは、これまでのように2人でやっていてはエンゼルメガバトルのレベルについていけないと感じ、歩いて帰るセイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ・タケシに詰め寄った。
トシユキ・シンイチ「ジムに入れて下さい」
セイゴ「全員が良いと言えばOK」
ヨウヘイ「どっちでも良い」
トシユキ「良いですよね?」
セイゴ「ヨウヘイは良いとは言っていない」
タケシ「ハハハー!」
トシユキ「お願いします!土下座します!」
ヨウヘイ「どうしようかなー」
シンイチ「お願いします!」
ヨウヘイ「良いよ」
タケシ「ハハハー!」
トシユキ「オレは?オレは?」
ヨウヘイ「ダメ」
シンイチ「ハハハー!」
※セイゴとヨウヘイはネタでやっています。
事前の打ち合わせはしていませんが、阿吽の呼吸というやつです。
セイゴ「あの時は結構しつこかったね」
トシユキ「マジでなかなか入れてくれんけ大変やった」
ヨウヘイ「そんなことあったかね?」
セイゴ「酷っ!」
1999年11月7日の第9回エンゼルメガバトルからは、ジャッジ推薦によるフェアプレー賞も導入された。
店舗でしか告知されていない自主大会兼店舗大会はクチコミで広がり、福岡市・長崎県・熊本県・山口県から参加するツワモノも現れた。
しかし、16回の大会で一度も、中間市・北九州市からタイトルを流出させなかった。
10年ほど後の山口県出身のジムメンバーとの会話。
ジュン「えっ?あの大会をやっていたのがこのジムなんですか?公式大会よりレベルが高いと聞いたことがあります。九州ポケカを語る上で絶対に外せない伝説の大会じゃないですか」
九州大会と全国大会のデッキのアイディア・完成度の違いを肌で感じ、誰もが頂点は遠いと感じていた。
ちょうど、エンゼルメガバトルの参加者が20名近くになり、進行を担当していた店長は「もう、私のレベルでは君達にはついていけない」と言い、大会運営の改革が必要だった。
改革は、セイゴに委ねられ、セイゴはレギュレーションとジャッジ制度の構築に着手した。
エンゼルメガバトル参加者から基本ルールを熟知しているプレイヤーを10名ほど選出し、難解なルール10問によるジャッジ認定試験を実施し、全問正解のセイゴ、8問正解のヨシユキ、7問正解のアンドウの3名が選ばれた。
5名を選出する予定だったが、次点が4問正解と大きな差があったので3名にした。
店長の代わりとなる進行役も必要だったため、1999年9月26日の第8回エンゼルメガバトルでセイゴがプレイヤーから退くことも決まった。
3大会連続で優勝すると殿堂入りというルールだったが、セイゴはこれを断念した。
迎えた1999年9月26日の第8回エンゼルメガバトル、これまでの参加者の増え方から22名の参加を想定していたが、25名と想定を上回る参加者が集まった。
セイゴは引退大会にこれまでより高い集中力で挑み、見事に優勝を成し遂げた。
そしてこの日、最も大きな波となったのは大会後の出来事。
予選で敗退したトシユキとシンイチは、これまでのように2人でやっていてはエンゼルメガバトルのレベルについていけないと感じ、歩いて帰るセイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ・タケシに詰め寄った。
トシユキ・シンイチ「ジムに入れて下さい」
セイゴ「全員が良いと言えばOK」
ヨウヘイ「どっちでも良い」
トシユキ「良いですよね?」
セイゴ「ヨウヘイは良いとは言っていない」
タケシ「ハハハー!」
トシユキ「お願いします!土下座します!」
ヨウヘイ「どうしようかなー」
シンイチ「お願いします!」
ヨウヘイ「良いよ」
タケシ「ハハハー!」
トシユキ「オレは?オレは?」
ヨウヘイ「ダメ」
シンイチ「ハハハー!」
※セイゴとヨウヘイはネタでやっています。
事前の打ち合わせはしていませんが、阿吽の呼吸というやつです。
セイゴ「あの時は結構しつこかったね」
トシユキ「マジでなかなか入れてくれんけ大変やった」
ヨウヘイ「そんなことあったかね?」
セイゴ「酷っ!」
1999年11月7日の第9回エンゼルメガバトルからは、ジャッジ推薦によるフェアプレー賞も導入された。
店舗でしか告知されていない自主大会兼店舗大会はクチコミで広がり、福岡市・長崎県・熊本県・山口県から参加するツワモノも現れた。
しかし、16回の大会で一度も、中間市・北九州市からタイトルを流出させなかった。
10年ほど後の山口県出身のジムメンバーとの会話。
ジュン「えっ?あの大会をやっていたのがこのジムなんですか?公式大会よりレベルが高いと聞いたことがあります。九州ポケカを語る上で絶対に外せない伝説の大会じゃないですか」
Episode4 初の全国大会
2014年5月7日 ジムの歴史1999年7月25日に開催された第6回エンゼルメガバトルでは、1週間前の福岡大会で入賞したヨウヘイとヨシユキは予選で敗退し、出場すらできなかったショウがリベンジを果たした。
この日、ヨウヘイは全国大会に向けてお互いに協力することをヨシユキに提案し、ヨシユキは受け入れた。
シークレットスーパーバトル日本一決定戦は1999年8月22日に東京都内某所で開催された。
9大会の4位の9人でプレーオフを行い、9大会の1位~3位の27人にプレーオフ通過者3人を加えた30人を5人6グループに分け予選ラウンドを行い、各グループの上位2名で決勝ラウンドを行った。
地区大会では使用できなかったジム拡張第2弾「闇からの挑戦」が解禁されており、練習を重ねた結果、ジムはR団のサンダー+エレブーを支持していた。
前日のプレーオフに出場したヨシユキはカメックス+ニョロゾを使用し、日本一決定戦への出場を果たしたが、予選ラウンドは突破できなかった。
ヨウヘイはR団のサンダー+エレブーを使用し、予選ラウンドを突破したが、この大会で3位になった東京大会B 2位のプレイヤーに敗れベスト8となった。
ジムの予想通りR団のサンダーの使用率は圧倒的に高かったが、コダック+ゴースト+タケシのキュウコン+プテラ+わるいラフレシアが異次元の強さを発揮しワンツーフィニッシュとなった。
このデッキはポケモンカード史上最強と言えるデッキで、アンチカードの作製、カードの効果の変更、レギュレーションの変更を必要とし、ゲームデザインに「ロックはしてはいけない」という指針を付け加えた。
コンセプトは、ゴース・コダック・わるいラフレシアで1ターン目からトレーナーズの使用を禁止、プテラで2ターン目から進化を禁止、相手プレイヤーに大量のドローを促し、ゴーストで相手の手札にあるトレーナーズの枚数×10ダメージを与えるという想像を絶するロックデッキだった。
この後、しばらくの間、ヨウヘイはこのデッキを、セイゴとショウはこのデッキに対する対策を追求したが、どちらも実ることはなく未完成でも異次元の強さだった。
ヨウヘイ「あれは勝ち目がない。オレの中では3位が優勝」
ショウ「相手のスタートがゴースかコダックだったらすることはない」
セイゴ「時を止めた。ポルターガイストか否かだけが重要だった」
この日、ヨウヘイは全国大会に向けてお互いに協力することをヨシユキに提案し、ヨシユキは受け入れた。
シークレットスーパーバトル日本一決定戦は1999年8月22日に東京都内某所で開催された。
9大会の4位の9人でプレーオフを行い、9大会の1位~3位の27人にプレーオフ通過者3人を加えた30人を5人6グループに分け予選ラウンドを行い、各グループの上位2名で決勝ラウンドを行った。
地区大会では使用できなかったジム拡張第2弾「闇からの挑戦」が解禁されており、練習を重ねた結果、ジムはR団のサンダー+エレブーを支持していた。
前日のプレーオフに出場したヨシユキはカメックス+ニョロゾを使用し、日本一決定戦への出場を果たしたが、予選ラウンドは突破できなかった。
ヨウヘイはR団のサンダー+エレブーを使用し、予選ラウンドを突破したが、この大会で3位になった東京大会B 2位のプレイヤーに敗れベスト8となった。
ジムの予想通りR団のサンダーの使用率は圧倒的に高かったが、コダック+ゴースト+タケシのキュウコン+プテラ+わるいラフレシアが異次元の強さを発揮しワンツーフィニッシュとなった。
このデッキはポケモンカード史上最強と言えるデッキで、アンチカードの作製、カードの効果の変更、レギュレーションの変更を必要とし、ゲームデザインに「ロックはしてはいけない」という指針を付け加えた。
コンセプトは、ゴース・コダック・わるいラフレシアで1ターン目からトレーナーズの使用を禁止、プテラで2ターン目から進化を禁止、相手プレイヤーに大量のドローを促し、ゴーストで相手の手札にあるトレーナーズの枚数×10ダメージを与えるという想像を絶するロックデッキだった。
この後、しばらくの間、ヨウヘイはこのデッキを、セイゴとショウはこのデッキに対する対策を追求したが、どちらも実ることはなく未完成でも異次元の強さだった。
ヨウヘイ「あれは勝ち目がない。オレの中では3位が優勝」
ショウ「相手のスタートがゴースかコダックだったらすることはない」
セイゴ「時を止めた。ポルターガイストか否かだけが重要だった」
Episode3 初の公式大会
2014年4月30日 ジムの歴史1999年7月18日、4人はチャレンジロード’99 SUMMER 福岡大会の会場にいた。
リザードンメガバトル、カメックスメガバトルに続く3回目の公式大会だが、4人にとっては初めての公式大会だった。
小学1年生~小学6年生が参加できるトロピカルメガバトル、小学3年生~高校2年生が参加できるシークレットスーパーバトルというレギュレーションの異なる2つのカテゴリがあり、パソコン通信、ダウジングマシン、超エネルギーリムーブなどの極悪カードは、トロピカルメガバトルでは使用禁止カード、シークレットスーパーバトルでは使用制限カードだった。
公式大会に参加するかでショウとヨウヘイはかなり悩んでいた。
会場は電車で1時間弱の場所だったが、街を越えなければならず、中学生と高校生には十分に遠い大都会で、店舗大会でも簡単には勝てないのに公式大会で勝つのは難しいと思っていた。
店長と気の利く女性店員3人に会場への行き方などを教えてもらい、大都会に何度か行ったことのあるセイゴが案内した。
シークレットスーパーバトルは大幅な定員オーバーで、ショウとヨウヘイは会場抽選列に並んだ。
抽選機が迫る中、当選確率は25%程度であることが分かり、緊張感が高まる。
「出場権、ゲットだぜ!」そんな感じだった。
メンバーの実力と年齢は比例していたが、出場権を得たのはヨウヘイとタケシの若手プレイヤーだった。
セイゴとショウは「予選通過できたら良いね」と送り出し、当日イベントのジムトレーナーに挑戦コーナーへ向かった。
待ち時間が6時間だっただろうか、あまりの長さに2人はすぐに断念し、フリー対戦コーナーで実力を確かめた。
それから数時間が経過し、「なかなか帰って来ないね」なんて話していたら、準々決勝の対戦カードが発表された。
「準々決勝に出てるやん!!」
それもそのはず、フリー対戦コーナーでも圧倒的な強さだった。
2人は慌てて大会が行われてるエリアへ向かったが、人が多すぎて着いた時には終わっていた。
準々決勝の結果は分からなかったが、程なくして始まった準決勝のステージには、紛れもなくヨウヘイがいた。
リザードン+エレブーを使うヨウヘイの場にリザードンが出ることはなく、終始ヒトカゲとエレブーで戦っていた。
セイゴとショウには理解できなかったが、勝利を収め決勝戦に駒を進めた。
決勝戦の相手はウインディ+エレブーで完敗だった。
「リザードンよりウインディの方が強いのはおかしい」リザードンを愛するヨウヘイはポケモンカードのバランスに落胆していた。
会場を出たところで入賞者となったヨウヘイは挑戦を受けた。
まるで、当時大ブームとなっていたポケットモンスターのように。
決勝戦で戦ったウインディ+エレブーより一回りも二回りも強く完敗だった。
「入賞者はこの程度か」と言われ、入賞で舞い上がっていた4人は現実に引き戻された。
「ヨウヘイで2位ならオレなら優勝できる」直前までそう言っていたショウは、自分と同じように落選した人達にも強いプレイヤーがいることを理解した。
準決勝は何度も振り返る機会があった。
ヨウヘイ「対戦相手はエンゼル中間店で見たことがあり、対戦前からカメックスと知っていた」
ヨシユキ「リザードンが入っているのに1度も出さずにエレブーばかり使ったのはズルい」
セイゴ「あれさえなければヨシユキの優勝だったね。その時は成功できたとは思えないけど」
リザードンメガバトル、カメックスメガバトルに続く3回目の公式大会だが、4人にとっては初めての公式大会だった。
小学1年生~小学6年生が参加できるトロピカルメガバトル、小学3年生~高校2年生が参加できるシークレットスーパーバトルというレギュレーションの異なる2つのカテゴリがあり、パソコン通信、ダウジングマシン、超エネルギーリムーブなどの極悪カードは、トロピカルメガバトルでは使用禁止カード、シークレットスーパーバトルでは使用制限カードだった。
公式大会に参加するかでショウとヨウヘイはかなり悩んでいた。
会場は電車で1時間弱の場所だったが、街を越えなければならず、中学生と高校生には十分に遠い大都会で、店舗大会でも簡単には勝てないのに公式大会で勝つのは難しいと思っていた。
店長と気の利く女性店員3人に会場への行き方などを教えてもらい、大都会に何度か行ったことのあるセイゴが案内した。
シークレットスーパーバトルは大幅な定員オーバーで、ショウとヨウヘイは会場抽選列に並んだ。
抽選機が迫る中、当選確率は25%程度であることが分かり、緊張感が高まる。
「出場権、ゲットだぜ!」そんな感じだった。
メンバーの実力と年齢は比例していたが、出場権を得たのはヨウヘイとタケシの若手プレイヤーだった。
セイゴとショウは「予選通過できたら良いね」と送り出し、当日イベントのジムトレーナーに挑戦コーナーへ向かった。
待ち時間が6時間だっただろうか、あまりの長さに2人はすぐに断念し、フリー対戦コーナーで実力を確かめた。
それから数時間が経過し、「なかなか帰って来ないね」なんて話していたら、準々決勝の対戦カードが発表された。
「準々決勝に出てるやん!!」
それもそのはず、フリー対戦コーナーでも圧倒的な強さだった。
2人は慌てて大会が行われてるエリアへ向かったが、人が多すぎて着いた時には終わっていた。
準々決勝の結果は分からなかったが、程なくして始まった準決勝のステージには、紛れもなくヨウヘイがいた。
リザードン+エレブーを使うヨウヘイの場にリザードンが出ることはなく、終始ヒトカゲとエレブーで戦っていた。
セイゴとショウには理解できなかったが、勝利を収め決勝戦に駒を進めた。
決勝戦の相手はウインディ+エレブーで完敗だった。
「リザードンよりウインディの方が強いのはおかしい」リザードンを愛するヨウヘイはポケモンカードのバランスに落胆していた。
会場を出たところで入賞者となったヨウヘイは挑戦を受けた。
まるで、当時大ブームとなっていたポケットモンスターのように。
決勝戦で戦ったウインディ+エレブーより一回りも二回りも強く完敗だった。
「入賞者はこの程度か」と言われ、入賞で舞い上がっていた4人は現実に引き戻された。
「ヨウヘイで2位ならオレなら優勝できる」直前までそう言っていたショウは、自分と同じように落選した人達にも強いプレイヤーがいることを理解した。
準決勝は何度も振り返る機会があった。
ヨウヘイ「対戦相手はエンゼル中間店で見たことがあり、対戦前からカメックスと知っていた」
ヨシユキ「リザードンが入っているのに1度も出さずにエレブーばかり使ったのはズルい」
セイゴ「あれさえなければヨシユキの優勝だったね。その時は成功できたとは思えないけど」
Episode2 エンゼルメガバトル開幕
2014年4月21日 ジムの歴史「店長、ポケモンカードの大会をやってもらえませんか?」
ハイパーヨーヨーの認定員としてエンゼル中間店に入り浸っていたセイゴとショウは店長に切り出した。
店長は怒ると怖いが普段は人当たりが良い人で、いつもネックストラップを付けているダイエーホークスの大ファンだったので、ダイエーホークスが勝利した翌日の特に機嫌の良い日を選んだ。
そう、ここはダイエー中間店、ダイエーホークスが勝利した翌日はお祭りムードすらあった。
この頃、ポケモンカードの店舗大会の情報は一切なかった。
インターネットも普及していなかったし、クリーチャーズからの情報も少なかった。
今考えればクリーチャーズの戦略だったと思うが、拡張パックに収録されているカードも分からず毎日が発見の連続だった。
拡張パックを開ける時には手が震えたし、デッキ構築はカードを読み比べながら試行錯誤した。
この提案は子ども達の損得を考えていない“小さな夢”でしかなかったが、ハイパーヨーヨーの認定会や店舗大会で作り上げたコネ、信頼、店長のノリ、そして“ないものは作ってしまえ”という雰囲気は決して小さくなかった。
店長はその場で「1回に限り開催」と「10人以上集まれば次回を開催」の2つの条件を提示した。
次回がないかも知れないということ以外にリスクはなかったので、拒否する理由は何一つなかった。
今ならオフィシャルサイトに店舗大会の日程が掲載されるところだが、先述の通りクリーチャーズのフォローはなく、気の利く3人の女性店員により数多くのポップと呼ばれる店内広告が作られた。
1999年4月25日、第1回エンゼルメガバトルが開催された。
もっとも、この大会名は後付けであり、実際は大会名という大層なものはなかった。
参加者はセイゴ、ショウ、ヨウヘイ、タケシ、店長を含め9名、次回の開催はなくなった。
今では考えられないと思うが、賞品はすべてポケモンカードと関係ないもので、名誉だけが懸かっていた。
5名と4名に分かれての総当たり戦の後、各ブロックの上位2名による勝ち抜き戦が行われた。
戦前の予想通り、たねポケモンから受けるダメージを10にするエリカのミニリュウ、進化ポケモンからダメージを受けないミュウ、20ダメージまでしか受けないバリヤード、進化をロックするプテラを駆使するセイゴに死角はなかった。
ただ、決勝戦はハイパーヨーヨーの販売促進イベントと同じく店舗前の広場で行われ、公開処刑だった。
サプライズは表彰式。
店長から、2週間後に第2回大会を開催することが発表された。
今思えば、参加人数が奇数になるのに店長が参加したのは店長なりの気配りだったのだろう。
ハイパーヨーヨーの認定員としてエンゼル中間店に入り浸っていたセイゴとショウは店長に切り出した。
店長は怒ると怖いが普段は人当たりが良い人で、いつもネックストラップを付けているダイエーホークスの大ファンだったので、ダイエーホークスが勝利した翌日の特に機嫌の良い日を選んだ。
そう、ここはダイエー中間店、ダイエーホークスが勝利した翌日はお祭りムードすらあった。
この頃、ポケモンカードの店舗大会の情報は一切なかった。
インターネットも普及していなかったし、クリーチャーズからの情報も少なかった。
今考えればクリーチャーズの戦略だったと思うが、拡張パックに収録されているカードも分からず毎日が発見の連続だった。
拡張パックを開ける時には手が震えたし、デッキ構築はカードを読み比べながら試行錯誤した。
この提案は子ども達の損得を考えていない“小さな夢”でしかなかったが、ハイパーヨーヨーの認定会や店舗大会で作り上げたコネ、信頼、店長のノリ、そして“ないものは作ってしまえ”という雰囲気は決して小さくなかった。
店長はその場で「1回に限り開催」と「10人以上集まれば次回を開催」の2つの条件を提示した。
次回がないかも知れないということ以外にリスクはなかったので、拒否する理由は何一つなかった。
今ならオフィシャルサイトに店舗大会の日程が掲載されるところだが、先述の通りクリーチャーズのフォローはなく、気の利く3人の女性店員により数多くのポップと呼ばれる店内広告が作られた。
1999年4月25日、第1回エンゼルメガバトルが開催された。
もっとも、この大会名は後付けであり、実際は大会名という大層なものはなかった。
参加者はセイゴ、ショウ、ヨウヘイ、タケシ、店長を含め9名、次回の開催はなくなった。
今では考えられないと思うが、賞品はすべてポケモンカードと関係ないもので、名誉だけが懸かっていた。
5名と4名に分かれての総当たり戦の後、各ブロックの上位2名による勝ち抜き戦が行われた。
戦前の予想通り、たねポケモンから受けるダメージを10にするエリカのミニリュウ、進化ポケモンからダメージを受けないミュウ、20ダメージまでしか受けないバリヤード、進化をロックするプテラを駆使するセイゴに死角はなかった。
ただ、決勝戦はハイパーヨーヨーの販売促進イベントと同じく店舗前の広場で行われ、公開処刑だった。
サプライズは表彰式。
店長から、2週間後に第2回大会を開催することが発表された。
今思えば、参加人数が奇数になるのに店長が参加したのは店長なりの気配りだったのだろう。
Episode1 プロローグ
2014年4月17日 ジムの歴史過去の思い出に浸るだけのものを書いてみます。
ジムやプレイヤーが成長する過程と現代のプレイヤーである読者を重ねながら一喜一憂したり、欲を言えば、自分達にもっとできることがあるのではないかと思って頂けたら幸いです。
記憶に基づいて書くため、話が戻ったり抜けていたりするかと思いますが、その点はご容赦下さい。
1999年4月~2010年9月の10年半活動していたジムで、10年半で17名のジムメンバーが所属しました。
ジムメンバーの他にフロントメンバー、サポートメンバーもいます。
ほぼ10年半一貫して所属していたセイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ中心の話になると思います。
~プロローグ~
シャッ、シャッ、シャッ。
1998年、セイゴとショウは当時流行りのハイパーヨーヨーをやっていた。
活動場所は主にダイエー中間店内のおもちゃ屋「エンゼル中間店」。
セイゴはハイパーレベルをクリアし、プロスピナーの称号を得ていた。
ムーンサルト・バックフリップ、スプリット・ジ・アトム、アトミック・ファイヤー、シュート・ザ・ムーンは簡単に成功させていたが、最難関の両手でのループ・ザ・ループは酷い出来だった。
ある日、セイゴとショウはエンゼル中間店の隣にあるゲームセンターで、見たこともない凄まじいテクニックを駆使してビートマニアを簡単にやってのける中学生に出会った。
その手にはハイパーヨーヨー。
次の瞬間、両手でのシュート・ザ・ムーンを繰り出した。
1回で失敗したが、片手でも難しいシュート・ザ・ムーンを両手でやる姿、両手で美しいループ・ザ・ループをする姿に2人に衝撃が走った。
「ねぇ、キミ」、話し掛けた瞬間、中学生は慌てて逃げた。
ヤンキーのショウが「捕まえろ!」と叫んだ。
セイゴとショウは二手に分かれ、かくれんぼが始まった。
あまりの足の速さに驚いたが、ダイエー中間店は従業員用通路に至るまですべて把握していた。
あっさりと捕まえると、もの凄く落ち込んでいた。
ショウが「テメェ、逃げんじゃねぇよ!」と言い、「ヨーヨーをやれ!」と言った。
技は未完成ながら、しばらく楽しんだ。
手順を間違っている技が多いので話を聞くと、左利きで、技のイラストが逆なのでできないという。
あぁ、イラストね。イラストでできるやつは神だから仕方ない。
ヨーヨーの技は基本的に、イラストをどれだけ見てもできるものではなく、人から教えてもらわないとできない。
この日から、セイゴとショウはヨウヘイにシングルハンドの技を、ヨウヘイはセイゴとショウにダブルハンドの技を教えた。
後からヨウヘイに聞くと「ヤンキー2人組に絡まれたと思って怖くて逃げた」と。爆笑。
ある時、セイゴとショウは遊びでやっていたポケットモンスターカードゲームの対戦を始めた。
セイゴは九州スポーツホビー研究所でミニ四駆、ビーダマン、ハイパーヨーヨー、ポケモンリーグ、ポケットモンスターカードゲームなどに分析官として広く携わり、ハイパーヨーヨーでロング・スリーパーという基本技の日本記録を樹立した後、エンゼル中間店に認定員として入り浸っていた。
九州スポーツホビー研究所時代、何の情報もない中、セイゴはポケモンカードゲームのルールブックを読み、「同一名称のカードは4枚にするべき」「たねポケモンは12枚以上にするべき」「2進化は2種類までにするべき」「タイプ(色)は2種類までにするべき」「エネルギーカードは20枚以下にするべき」という理論を導き出していた。
セイゴとショウはこれまでも何度も対戦や議論を重ねており、ショウはセイゴのレベルに追い付きつつあった。
ヨウヘイは何度か拡張パックを買ったことがあったが、ルールを理解できずに諦めており、この対戦に興味津々だった。
無色2個エネルギーの使い方に違和感を覚えたヨウヘイは対戦後、「ニコタマはすべての色のエネルギー2個じゃないんやね」と言った。
セイゴとショウは爆笑。「それは強すぎるやろー」
拡張パックから最初に出たカードがリザードンだったらしく、無色2個エネルギーの効果を間違えていたらしい。
「ポケモンカードゲームに興味があるなら一緒にやる?」軽い問いに、ヨウヘイは「うん」と答えた。
セイゴ、ショウ、ヨウヘイ、同じくハイパーヨーヨーとポケモンカードゲームをやっていた小学生タケシの4人でハイパーヨーヨーとポケモンカードゲームをするチームを結成した。
この後、数年間はハイパーヨーヨーをメインに活動していましたが、ポケモンカードと関係ない話ばかりなので、ハイパーヨーヨーの話は基本的に割愛します。
気になりますか?
この後、ハイパーヨーヨー部門とポケモンカード部門は分かれ、ハイパーヨーヨー部門は、エンゼル中間店認定の当時のプロスピナー4人のうちセイゴ、タケシ、ジョウジマと黒崎井筒屋認定のプロスピナーのヨウヘイを中心に、エンゼル中間店のハイパーヨーヨー認定員や販売促進イベンターとして活動しました。
ジムやプレイヤーが成長する過程と現代のプレイヤーである読者を重ねながら一喜一憂したり、欲を言えば、自分達にもっとできることがあるのではないかと思って頂けたら幸いです。
記憶に基づいて書くため、話が戻ったり抜けていたりするかと思いますが、その点はご容赦下さい。
1999年4月~2010年9月の10年半活動していたジムで、10年半で17名のジムメンバーが所属しました。
ジムメンバーの他にフロントメンバー、サポートメンバーもいます。
ほぼ10年半一貫して所属していたセイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ中心の話になると思います。
~プロローグ~
シャッ、シャッ、シャッ。
1998年、セイゴとショウは当時流行りのハイパーヨーヨーをやっていた。
活動場所は主にダイエー中間店内のおもちゃ屋「エンゼル中間店」。
セイゴはハイパーレベルをクリアし、プロスピナーの称号を得ていた。
ムーンサルト・バックフリップ、スプリット・ジ・アトム、アトミック・ファイヤー、シュート・ザ・ムーンは簡単に成功させていたが、最難関の両手でのループ・ザ・ループは酷い出来だった。
ある日、セイゴとショウはエンゼル中間店の隣にあるゲームセンターで、見たこともない凄まじいテクニックを駆使してビートマニアを簡単にやってのける中学生に出会った。
その手にはハイパーヨーヨー。
次の瞬間、両手でのシュート・ザ・ムーンを繰り出した。
1回で失敗したが、片手でも難しいシュート・ザ・ムーンを両手でやる姿、両手で美しいループ・ザ・ループをする姿に2人に衝撃が走った。
「ねぇ、キミ」、話し掛けた瞬間、中学生は慌てて逃げた。
ヤンキーのショウが「捕まえろ!」と叫んだ。
セイゴとショウは二手に分かれ、かくれんぼが始まった。
あまりの足の速さに驚いたが、ダイエー中間店は従業員用通路に至るまですべて把握していた。
あっさりと捕まえると、もの凄く落ち込んでいた。
ショウが「テメェ、逃げんじゃねぇよ!」と言い、「ヨーヨーをやれ!」と言った。
技は未完成ながら、しばらく楽しんだ。
手順を間違っている技が多いので話を聞くと、左利きで、技のイラストが逆なのでできないという。
あぁ、イラストね。イラストでできるやつは神だから仕方ない。
ヨーヨーの技は基本的に、イラストをどれだけ見てもできるものではなく、人から教えてもらわないとできない。
この日から、セイゴとショウはヨウヘイにシングルハンドの技を、ヨウヘイはセイゴとショウにダブルハンドの技を教えた。
後からヨウヘイに聞くと「ヤンキー2人組に絡まれたと思って怖くて逃げた」と。爆笑。
ある時、セイゴとショウは遊びでやっていたポケットモンスターカードゲームの対戦を始めた。
セイゴは九州スポーツホビー研究所でミニ四駆、ビーダマン、ハイパーヨーヨー、ポケモンリーグ、ポケットモンスターカードゲームなどに分析官として広く携わり、ハイパーヨーヨーでロング・スリーパーという基本技の日本記録を樹立した後、エンゼル中間店に認定員として入り浸っていた。
九州スポーツホビー研究所時代、何の情報もない中、セイゴはポケモンカードゲームのルールブックを読み、「同一名称のカードは4枚にするべき」「たねポケモンは12枚以上にするべき」「2進化は2種類までにするべき」「タイプ(色)は2種類までにするべき」「エネルギーカードは20枚以下にするべき」という理論を導き出していた。
セイゴとショウはこれまでも何度も対戦や議論を重ねており、ショウはセイゴのレベルに追い付きつつあった。
ヨウヘイは何度か拡張パックを買ったことがあったが、ルールを理解できずに諦めており、この対戦に興味津々だった。
無色2個エネルギーの使い方に違和感を覚えたヨウヘイは対戦後、「ニコタマはすべての色のエネルギー2個じゃないんやね」と言った。
セイゴとショウは爆笑。「それは強すぎるやろー」
拡張パックから最初に出たカードがリザードンだったらしく、無色2個エネルギーの効果を間違えていたらしい。
「ポケモンカードゲームに興味があるなら一緒にやる?」軽い問いに、ヨウヘイは「うん」と答えた。
セイゴ、ショウ、ヨウヘイ、同じくハイパーヨーヨーとポケモンカードゲームをやっていた小学生タケシの4人でハイパーヨーヨーとポケモンカードゲームをするチームを結成した。
この後、数年間はハイパーヨーヨーをメインに活動していましたが、ポケモンカードと関係ない話ばかりなので、ハイパーヨーヨーの話は基本的に割愛します。
気になりますか?
この後、ハイパーヨーヨー部門とポケモンカード部門は分かれ、ハイパーヨーヨー部門は、エンゼル中間店認定の当時のプロスピナー4人のうちセイゴ、タケシ、ジョウジマと黒崎井筒屋認定のプロスピナーのヨウヘイを中心に、エンゼル中間店のハイパーヨーヨー認定員や販売促進イベンターとして活動しました。