エンゼルメガバトル終了後、新しい大会を作ることを模索したが、開催する場所を確保できなかった。
私達は、毎週のようにヘヴンズ#ジムの練習会場である隣町のサンリブ三ヶ森に出掛けた。
ポケカ版出稽古である。
事前にスケジュールを確認していた訳ではないので、出掛けても会えずに帰ることもあった。
ヘヴンズ#ジムから私達の練習会場であるダイエー中間店に来ることもあった。
この頃のヘヴンズ#ジムはメンバーが上層と下層に二分されていて、私達は間を埋めた。
2つのジムは切磋琢磨し、次々に新しいデッキ・構築法・プレイングを見付けた。
練習は缶詰ではなく、買い物をしたり食事をしたり、今まで通り自由だった。
ヘヴンズ#ジムも私達と同じように、毎日集まれる人が集まり、自由に遊んでいたのである。

約2ヶ月後の2000年7月30日にワールドチャレンジ(夏) 九州大会が開かれた。
この大会は小学生部門640人、中学生・高校生部門640人という定員で行われ、九州大会の中学生・高校生部門は当日抽選が行われた。
高校生までしか出場できないため遠征者は多くないが、バトルカーニバル2013スプリングより多い参加者数である。

私達はトクヒロくんの優勝はほぼ確実と思っていた。
しかし、ヨウヘイ・ヨシユキ・シンイチ・トシユキ・ヨシツグ、すべてのジムメンバーが「トクヒロくんを決勝戦で倒す」と強く思っていた。
ヨシツグは、この時点では正式にジムに入団していた訳ではないが、私達と常に行動し、ジムメンバーに多くを助言し、ジムメンバーから多くの助言を受けていた、事実上のジムメンバーである。
セイゴは、年齢制限により出場できなかったため、サポートメンバーとして帯同していた。
予選は、株式会社クリーチャーズが用意した全員同じデッキによる10人3回戦1人通過のハーフリーグで行われ、2勝1敗のシンイチのみが予選敗退となった。
ヘヴンズ#ジムも多くのジムメンバーを本選に進出させた。
この時点で九州大会ベスト64、その約1/4を私達とヘヴンズ#ジムが占めていた。

セイゴは、東京から息子1人と娘2人を連れて来ているパパと話をしていた。
2人は初めて会ったが、お互いに自分達の努力を誇りに思っており、深い話をしていた。
パパ「周りの人はデッキに入れたカードを引けないと嘆く。しかし、私はデッキに入れたカードを引けるようにデッキを作っている」

ベスト8に残ったのはヨシユキとトシユキのみ、ヘヴンズ#ジムは1人も残れなかった。
後で考えるとヘヴンズ#ジムの大半のメンバーは今回が初めての公式大会であり、経験が足りなかったのかも知れない。
ヨシユキはラウンド8で敗れ、私達に残されたのはトシユキのみだった。
この時点のジムメンバーの実力は、セイゴ・ヨウヘイ・ヨシユキ・ヨシツグ・トシユキ・シンイチの順で、大穴中の大穴だった。
私達はトシユキの試合を観ていたが、どの試合も一方的に攻めている訳ではなく、気付いたら終盤に逆転する試合を繰り返していた。
毎試合違う場になり、パパからは「あのデッキは何?」と質問されていた。

トシユキは、掴みどころのない試合を繰り返し、ジムに初優勝をもたらした。
しかし、私達は、何故トシユキが優勝したのか分からなかった。

会場を出たところで優勝者となったトシユキは2人の挑戦を受けた。
まるで、ちょうど1年前のチャレンジロード’99 SUMMER 福岡大会のように。
今回は、トシユキが圧倒した。

ヨウヘイ「トシユキで優勝できるならオレも優勝できる」
トシユキ「マジ、運が良かったぁ。全国大会でも優勝してくる」

当時は分からなかったが、後で振り返ると、トシユキが優勝したのは運ではない。
トシユキは、確かに相手を圧倒することはなかったし、毎試合同じ場を作ることができなかった。
しかし、それこそが戦術だったのだと思う。
相手に応じて使うポケモンを変え、相手が進化デッキと判断すれば原始の力を持つプテラを、相手の弱点が雷ならR団のサンダーを、自分の準備ができれば友達の輪を持つプクリンを使っていた。
非常によく考えたカメレオン戦術だったのである。

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